私たちの住むムンバイ



お家がみつからない

ムンバイの住宅事情が悪いと言う話は、ムンバイでは日本人のみならず、インド人も欧米人も感じていること。かつてムンバイはコーリーという漁民が住む7つの島からできていました。16世紀に天然の良港としてここに目をつけたポルトガル人によって支配され、その約100年後の1661年ポルトガルの女王とイギリスの国王チャールズ2世の結婚により、ムンバイはポルトガルからイギリスへの贈り物とされ
「ボンベイ=ポルトガル語で,ボン(良い)バィア(港)を語源とする。」
と呼ばれるようになりました。そのころのムンバイはココナッツの林が続き、干潮時には島と島がつながっていました。そしてマラリア蚊が大発生していました。
 1687年にスーラット(現グジャラート州)からボンベイに移ったイギリスの東インド会社が積極的にボンベイ開発に力を注ぎ、ゾロアスター教徒(パースィー)や、イギリス商人の移住を勧め18世紀には埋め立てや港の整備も進み銀行や造幣局もでき商業都市として栄えるようになりました。
 だから今でもアラビア海沿いのマリーン・ドライブという海岸線を、Queen‘s Necklace(女王の首飾り)と呼んでいて、夜は大変きれいな摩天楼の夜景が楽しめます。いわば夢の島にたつ高層住宅は日ごとに増えるボンベイの人口と攻めぎあい、既に土地に関しては香港と同じように飽和状態です。
 新しいビルが建つ余地がないため,ほとんどのフラットと呼ばれる高層マンションは築20年以上。中には築50年というのもあり、エレベーターも三越デパートのように金網の2重ドアタイプのものばかり。大きなマンションは中にリフトマンと呼ばれるオペレーターがいて運転操作をしてくれますが、手動式のタイプもあって
「落ちないかなー。」といつも、デンジャラスな気分で乗っています。
 当然古いので故障も多く先日も今住むフラットの3台あるエレベーターの全てが故障し、買出しの野菜の重たい袋を持って15階までゼイゼイいいながら登ったばかりです。朝の出勤時も、エレベーターはなかなかこないので、日本人ビジネスマンのお父さんはいつもイライラし、子どもたちもスクールバスに遅れそうだと、(そう思ったら早く出ればいいのにそれができないのです。)大騒ぎの朝です。
早くインド流に慣れてほしいものです


 そんなわけで数少ないフラットの物件の中から子ども部屋、日本人がつかえそうな台所(インドスタイルも面白そうですが日本料理作りに使うのはちょとしんどい)、日本人がつかえそうなトイレと(やっぱり便座と紙がないのは困るので)、お湯の出るお風呂。ストアルーム(日本食・日用品の保存に使う。駐在の欧米人・日本人標準家庭は,大型冷凍庫2台を装備し半年分の肉類、日本食、3年分の日用品・医薬品を保管している。

 なんだか非常事態に備えての備蓄みたいで、貧しいこの国で自分だけが豊かという気がして私はどうもこのシステムが苦手です)そして、なんといっても家賃とセキュリティーの問題、日本人学校のスクールバスコースなどなど…、これらの条件を満たす住まいは、はっきりいって皆無です。いっそのこと好奇心旺盛な私としてはインドスタイルで暮らしてしまいたいくらいなのです。ですが日本人には、日本人のライフスタイルがあり、ましてやたった(?)3年の駐在で来ている以上どっぷりインド生活を送れるわけもなくどんな風にインドとの折衷を考えていくかが、これからのライフスタイルや家探しの重要課題となりました。

インド人の家、お宅訪問

 日本人向け住宅の斡旋を手がけている不動産屋さんと、お父さんのお昼休み(1時〜3時)に、3週間で約50件ほど見て回りました。前述のとおり条件を満たす家はなかなかないのですが何でも楽しんじゃう私としては、インド人家庭のお宅訪問はとっても楽しかったです。もちろん空家もあるわけですが中にはまだ住んでいる家もあり、オープンハウスをしているインド人のお宅訪問もかねていました。ボンベイで3ベッドルームのフラットを保有しているオーナー(大家さん)ですから大金持ち。ボンベイは,商談のための一時的な住居で、本宅は海外やケララ、ゴアやプーネ(インドの軽井沢)にあるという人が多かったです。

お金持ちが多いので、家の中も西洋風に改築されていたり、インテリアコーディネートもセンス抜群というお宅もありますが、そういう家よりも私の興味は、ヒンズー教徒のインドスタイルの家です。

 まずドアを開けてくれるメイドさんの反応。日本人を見るのが初めてなのでしょう。まるで私たちを見る目はエイリアンか?という感じで、穴のあくほど見つめられてしまいます。この驚いた反応にこちらのほうが恐縮してしまいます。ですが海外旅行の経験もあるであろうオーナーの人は、外国人である私たちに対して、非常に丁重で親切な対応でした。カーストのこの国でいわば私たちはアウトカーストです。触れることさえ許されないのに半分くらいの人から、手を差し出され握手で挨拶。玄関には、必ずガネーシャ(ヒンズー教の神様)の絵や置き物が生のマリーゴールドや、ジャスミンの花の首飾りで飾られ置かれています。

インドの家は、日本と同じように玄関で靴を脱ぎます。室内は裸足。(足の指にも,お金持ち女性は,たくさんの指輪をしています。)どこの家にも壁には大きな家族の写真や肖像がかけてあります。お墓を持たないヒンズー教徒なのでどうやら亡くなった人の遺影のようですが初めての家なので詳しいことも聞けず残念でした。(すぐに聞きたくなってしまうけど今回は目的が家探しなのでを遠慮しました。)台所は、一番楽しみなエリア。たくさんのスパイスの入った揃いのびんや缶がズラーと並んでいます。もちろん使用人がいるせいもあるのでしょうが、どこのキッチンも良く磨き上げられ整理整頓が良く行き届いていて、衛生的。よっぽど日本の家庭の台所の方が汚い!と思います。ステンレスや銀の食器もピカピカに磨かれて、インド食器専用の食器棚に並べられています。タンドリーチキンやロティー(インドのパン)を焼くために,ガスレンジにはグリルやオーブンが装備されていて、大型冷蔵庫も、ステイタスシンボル的にドーンとおかれています。焼いたチャパティーを保温しておく電気チャパティー保温機なるものもありました。ボンベイは,ほとんど停電がないそうでこれも途上国とは思えない近代都市を実感します。

 洗濯物は、窓の鉄柵に無造作に突っ込むかたちで干されていて乾いたらしわくちゃだわと思ったら、サーバントさん(男性の使用人。女性はメイドという。)がちゃんとすべてにアイロンをかけてくれるのでいいみたいです。なぜかサリーが干してあるのが見られなかったのですが、お金持ちのシルクのサリーはやはりドライ・クリーニングに出すのでしょうか。クローゼットの中も見せてもらいましたが、呉服みたいに重ねて畳んだシルクのサリーがぎっしり入っているのは見事です。特に大切なサリーは、呉服の乱れ箱のような黒塗りの木箱に白い布で1枚づつ包まれて入れてありました。もっとじっくり見たかったです。

 トイレは使用人部屋以外は西洋式便座もありますが、やっぱりトイレットペーパー装備の家はインド人家庭30件中1件だけでした。

 お風呂は、バスタブはまずないです。1m
×1mのシャワールームがトイレと一緒にあります。西洋人が住んでいたフラットはバスタブがついていますが、お湯の中につからないのがインド流。暑くても肩までつかりたい日本人にはちょと大変かも知れませんが、たとえお湯が出ても毎日バスタブいっぱいに大量にお湯を使うことはままならないので、日本へ帰って温泉へ行く日を楽しみにしたいと思います。

ちなみに、インドに来た日本人団体観光客が泊まるホテルはバスタブいっぱいお湯をはって使うのですぐにお湯が出なくなって困るそうです。
 どうぞみなさん、インドを御訪問の際はインド式シャワー入浴にしてくださいね。

 最後に見るのがプレイルーム。遊技場ではなくていわばインドの仏間ならぬヒンズー間。ヒンズー教は多神教なのでたくさんの神様のブロマイドや御神体が飾ってあって絢爛豪華な色取り、賑やかなお部屋です。覗いてみたら、
「あー!靴脱いでください。」
と注意されてしまいました。プレイルームには、異教徒が入ってもいいけど拝ませていただくにはルールがあるようでさらなる探求は次回に見送りました。

ここでの家賃は社宅扱いで会社が負担してくれますが、
@3年分全額前払い(1ヶ月約50万円〜100万円!!!位が日本人が住むフラットの相場。NY・香港を抜いて現在世界で1番高い)
A約6,000万〜1億円の保証金と月家賃(30,000〜50,000円位)=この方法は,保証金の利子が大家さんの収入になるのですが、戻ってこないリスクが多いので日本人企業では敬遠されている。
B3年分US$で全額外国の銀行へ支払う(大家さんの脱税の為)というおよそ3つの方法があります。

 せっかく気に入った家が見つかっても、支払方法についてこちらの希望どおりにはいかずとっても大変でした。超インドスタイルにするべきか欧米スタイルかとずいぶん迷ったけれど、結局金額的な折り合い、支払方法、入居後のメンテナンスなどの理由から、ドゥバイに住んでいるインド人オーナーのフラットで、以前は南アフリカ共和国の総領事一家が住んでいたという家に決まりそうです。せっかくインドに住むのに無難過ぎた選択だったかもしれないとちょっと残念でもあります。しかし、難航した家探しに、いつも前向きな私も精神的に参ってしまい、胃が痛くて眠れない日がありました。とにかく家が決まって、胃痛もおさまり、ほっとしています。一番避けたかった雨季の引越しになりそうです。きっと大騒ぎになるであろう引越しの話は、次回ご期待ください。(1999年5月15日)




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